シカゴ出身のDJ Pierreは、80年代にmixologistとして頭角を現しました。 Herb J、SpankyとともにPhutureを結成し、DJやメンバーとともに新たなジャンル、”アシッド・ハウス”を生み出します。その後もシカゴやニューヨークなどの各地でハウスやアシッド・ハウスに影響を与え続け、DJ兼プロデューサーとしても40年近いキャリアを積み重ねました。その活躍のすべては、彼の生まれ故郷シカゴで先人のDJたちを聴くことから始まったのです。
若き頃に受けた影響:Hot Mix 5からItalo Discoまで
Pierreのインスピレーションの始まりは、Warehouse(のちの Music Box)で、Frankie Knuckles と Ron Hardyが操る伝説的なセットに出会ったことでした。若きDJのトランジションはとてもスムーズで、彼が1枚のレコードを外すまで、聴衆は2つの曲がミックスされていることに気づかないほどでした。
10代のPierreが影響を受けたものの1つに、WBMXのHot Mix 5があります。この歴史的なDJチームは、80年代初頭のシカゴにおいてハウスミュージックの人気を盛り上げました。彼らのエディットは完璧で、ミックスのテクニックも非の打ち所がありませんでした。彼らはまた、アメリカのリスナーにはほとんど知られていなかったItalo discoの楽曲も好んで取り入れました。そしてPierreも同様に、Stoppの『I’m Hungry」(1983年)などで観客の反応を試していました。そしてターンテーブルの扱いに自信をつけると、自らPhutureのレコーディングもするようになりました。
PhutureとTB-303、そして『Acid Tracks』
メンバーの1人、Spankyが質屋でRolandのTB-303を手に入れたのは偶然のことでした。そしてすぐに、この303はPhutureが使用する機材の中心となります。あるセッションで、Pierreが303のツマミをひねり、ベースラインの周波数とレゾナンスを変化させると、「スケルチ音」と呼ばれる抗えないサウンドが生まれました。これが『Acid Tracks』(原題『In Your Mind』)の元となり、アシッド・ハウスが誕生したのです。
"Rolandはハウスミュージックに欠かせない。
そして、それこそがRolandだ。"
1985年、ハウスDJとして名高い故Ron Hardyのもとに、1本の発売前のカセットテープが届きました。そしてHardyはこの意欲的なプロデューサーに協力することを決めます。ところが HardyがPhutureの曲を初めてプレイした時、客は困惑し、フロアから離れていってしまいました。しかしミックスを繰り返したところ、4回目で客が戻り、フロアが熱狂しはじめました。
この曲がクラブで流行すると、ファンの間ではマイクロカセットの海賊版が多く出回りました。人気に火がつき始めた当初は、Hardyの曲だと勘違いされることも多かったといいます。『Acid Tracks』は、PhutureがMarshall Jeffersonと一緒に再録した時点ですでにかなりの話題となっており、1987年にTraxRecordsから正式にリリースされました。
アンチ・アシッドの存在と『We Are Phuture』の誕生
しかし、成功は長続きしませんでした。Phutureの革新的な作品に水を差すように、シカゴのリスナーの中にはアシッドの正当性を疑問視する者も出てきました。特に、過激な発言者の中にはSpankyに近寄り、アシッド・ハウスはもう終わりだと告げたりする者もいました。それは『Acid Tracks』のリリースからちょうど1年後のことでした。落胆したSpankyは、その夜、Pierreの家に立ち寄りその話を伝えました。するとPierreはすぐさま、アシッドがこれからも健在だということを知らしめるために『We Are Phuture』の制作に取りかかったのです。それは彼の反抗心の表れでもありました。「あのトラックを書いたのはそのためだ」とPierreは語っています。「Spankyがひどく取り乱していて、それを見て、怒りがこみ上げてきたんだ」。
この曲は、Phutureに対して向けられた否定的な意見を力強く覆すものです。『Acid Tracks』ほど知られてはいませんが、この曲はPhutureのディスコグラフィーの中でもトップクラスの作品であり、この曲のおかげでPhutureが一発屋でないことも証明されました。
汎用性、品質、手頃さを兼ね備えたTR-707とTR-727
Pierreがアシッド・ハウスというジャンルを生み出しそれを支えてきたことは、歴史的な価値があり、その業績は記録として残されるべきでしょう。しかし、彼とRolandの関係は彼の愛用するTB-303にとどまりません。「Rolandは、ハウスミュージックには欠かせないんだ」と彼は言います。「そして、それこそがRolandだ」。
彼はPhutureのデビュー当時に使っていたTR-707とTR-727に言及しており、この2台はプロを夢見るアーティストたちにも手が届く、プロ仕様のリズム・マシンだったと言っています。『Acid Tracks』のビートでは、707と727が大きくフィーチャーされているのがわかります。 このように感じていたミュージシャンはPierreだけではありません。INXSの大ヒット曲『Need You Tonight』には、紛れもなく707が使われています。この2曲は1987年当時、全く異なる音楽ジャンルに存在していましたが、707/727はそれぞれのレコーディングの枠組みの中でうまく機能していたのです。
"僕たちは全員、この子の親であり、
この子の世話をするために、それぞれが自分の役割を
果たしていたようなものだった。"
「今、思い返してみると、皆が808に敬意を払っていた」とPierreは言います。自分たちがキャリアアップしていくために、この808を大切に扱う必要がありました。こうして、ほとんど面識のなかった者同士が機材の共有をし始め、それをうまく進めていったのです。「僕たちは互いに知り合いで、深く尊敬し合っていた」と彼は続けました。
「僕たちは全員、この子(808)の親であり、この子の世話をするためにそれぞれが自分の役割を果たしていたようなものだった」。
JUNO-106とWild Pitchスタイルの創世記
Roland JUNO-106は、90年代初頭のPierreのキャリアに欠かせない存在となりました。この過渡期に、彼はWild Pitchという名のスタイルでいくつかの作品を制作しています。彼の新しいサウンドは、各トラックに深くて重厚なサウンドスケープを重ねることに重点を置いていました。他に類を見ない106のベースは、ほとんどの作品で中心的な役割を果たしています。「106はWild Pitchのベースライン・サウンドのようなものだった」とPierreは言います。「あれは僕にぴったりのキーボードだ。あの106のベースラインでないとダメだったんだ」。
"106はWild Pitchのベースライン・サウンドだよ。
トラックを広げて、より高いレベルを目指すために
106を使ったんだ。"
Pierreは106でベースラインの操作もしましたが、メインはレイヤリングでした。「たまに操作することもあったけど、それもレイヤーを重ねてトラックを作るときだけだった」と彼は明かします。「トラックの後半でもっと盛り上がりを出したいときは、106のフィルターをいじるんだ。ベースの音を変えてもっと威嚇するような感じにしたり、スケルチ音を少し混ぜたり、レゾナンスを変えたりね。そうやってトラックを広げて、より高いレベルを目指すために106を使ったんだよ」。
さらなる高みへ
本稿で紹介した音楽は、Pierreの膨大かつ多様なディスコグラフィーのほんの一部に過ぎません。Discogs(音楽データベース)に掲載されている彼の制作クレジットは250以上にのぼります。Wild Pitchスタイルで収録された音源は、最近『Wild Pitch:The Story』として再リリースされ、評判も上々です。Bandcamp Dailyでも2017年にAlbum of the Dayに選出されています。さらに、PierreとSpankyは、2019年にローランドLifetime Achievement Awardを受賞しました。
今もなお、人の心を惹きつけてやまないPhuture。そしてPierreは、シカゴのThe Arc Music Festivalなどの著名なイベントで観客の心を揺さぶるライブを披露し続けています。新しいジャンルを生み出し制作スタイルを確立させ、世界中で圧巻のDJプレイを披露するPierreには、音楽で人々を感動させるという使命があります。それを止めることは誰にもできません。